────in the blue. 瀬戸真朝 昔から、水の中にいると落ち着いた。 水中で青い空を見上げていると、このままこの青に溶けてしまえばいいのに、と思う── 地上に上がって周りを見渡してみると、市民プールにいる人数はまばらに思えた。 温水プールでもなく、室外にただの25mプールがあるだけのこの年期がかった市民プールに、 気温が高い訳でもないのに梅雨もまだ続く六月下旬に来る人間なんて、よほどの水泳好きか暇人かのどちらかだろう。 私はその両方だった。 水泳好きで暇人──いや、暇なのは正しいが、水泳が好き≠ニいうより潜水が好き≠ニ言った方が良いのかもしれない。 物心ついた時から潜ることが好きだった。 普通の人は潜っても浮いてしまうようだが、私は息が続く限りは水中にずっといることが出来た。 潜ったままでいられる理由はよく分からないが、小さい頃から水泳の授業の度に水中から空を見上げていた気がする。 地上に上がると、タオルで体も拭かずに周りを見ていたが、梅雨も明けていない六月の風が吹くと、さすがに寒かった。 もう一度、水の中に入ろうとプールサイドから足を伸ばしてみる。 水は簡単に私を受け入れる。 首から上以外の体全てが水で満たされると、今度は全てを得る為に顔を水中に入れる。 苦しくなったら水上に顔を出す。 それを繰り返す。 水中にいると、落ち着くのと同時に満たされた気分になる。 でも、何が満たされたのかは分からない。 体を一捻りし、空を見上げる。 水面の向こうに、青く見える空がある。 私は青い水中で手を伸ばす。しかし、その手は届かない。 青は孤独だ。 青は寂しい。 伸ばした手を見ながら、 ふと頭の中で過ぎったその言葉は、私の思考そのままだった。 青は孤独だ。 青は寂しい。 「いつも君はここに来てるね」 見知らぬ男性からそう声をかけられたのは、休憩時間中のことだった。 「泳いでる訳でもなく、ずっと水中に潜ってばかりいるから気になったんだ」 彼はそう言って、タオルにくるまっている私の隣に座った。 その時、彼の指に銀色の物が光っているのをふと見た。 「……不倫、するつもりですか?」 私がそう聞くと彼は一瞬呆気に取られたみたいだったが、すぐに笑い出した。 「ごめんね、変なこと聞いて。でも、純粋に気になっただけなんだ」 彼は笑った後にそう言うと、今度は誰も泳いでいないプールを見ながら聞いてきた。 「ねぇ、青ってどんな風に見える?」 突然聞かれた質問の意味が分からないずに無言でいると、 最初から答えは求めていなかったようで、彼は質問から間を空けずに答えた。 「僕はね……青は孤独で、寂しいと思うんだ」 私は驚きのあまり、彼を見た。 さっきまではっきりと彼の顔を見ていなかったが、彼はただまっすぐとプールを見つめていた。 「……私も、そう思います」 そんな答えが返ってくるとは思っていなかったはずの彼は、振り向いて私を見た。 「上手くは言えないけれど……私もずっと、同じ事を考えていたんです」 彼もそう聞くと、私と同様に驚いているように見えた。 「驚いたな……まさか、同意してくれるとは思わなかったから。君は本当にずっと、そう思っていたのかい?」 「はい……物心ついた時から、ずっと」 「……君、まだ若いよね? 僕と十五は離れているように見えるけど」 「高校を卒業して、五年経ちます」 「それじゃあ、十五は軽く離れているね」 彼はそう言うと、立ち上がって近くにかけてあったタオルを持って来た。 「僕は昼食を食べにもう上がるけど、君はどうする?」 「私も上がります」 いつもなら、お昼も食べずに夕方近くまで泳いでいたけれど、私は迷わずそう答えた。 結局、そのまま二人が行ったのはコンビニでもレストランでもなくて、ホテルだった。 その行為自体は初めてじゃなかったけれど、こんなに満たされたのは今までなかった。 彼を何度も欲しがった私が、私ではないように自分でも思えた。 行為が終わってベッドに横たわっていると、横にいる彼がこんな質問をしてきた。 「明日で世界が終わるとしたら、君はどうする?」 私は少しだけ考えた後、「死にます」と答えた。 「やっぱ、そうだよな」と、それを聞いた彼は笑っていた。 そしてその日は、夜が来る前に駅で別れた。 それから、彼とはあの市民プールで時々会った。 殆ど毎日プールに行く私が、彼と偶然会うのはそんなに多くはなかったけれど、 プールで彼を見つけると、昼頃からはホテルに行った。 行為の後、彼は質問をよく私にした。 「君は、天国という場所があると思う?」 ある日、彼からそう聞かれると、私は答えを出すのに少し時間がかかった。 「思いません。死んだら、存在自体が消えてなくなると思います。 ……例えば、今まで答えを考えていた私≠ニいう存在も」 そう私が言うと、「……そうか」と言って彼はしばらく黙った後、 私が気が付くとそのまま眠ってしまっていた。 起こそうと思ったが時間も早かったので、私は彼の方を見た。 そして何故だかふと、眠っている彼の片腕を持ち上げて、その腕の間に私は入り込みたくなった。 いざやってみると、不思議な感覚に襲われた。 ──まるで、水中にいるような。 そのまま、彼の胸の中に潜り込んだ。 彼の肌の温かさが私を包み込み──そして何故だか、小さい頃の私が頭の中に現れた。 三歳を過ぎた頃には、私は既に施設にいた。 両親が蒸発し、施設に預けられたことは後から知った。 お腹が空いたまま、見知らぬ部屋にずっと一人で立ちつくしている──それが、私の知る限り一番古い記憶だ。 だが施設に来てからは、お腹が空けばご飯が出てくるし、常に友達がそばにいるから一人じゃない。 だから自分は幸せだと、幼い私は思っていた。 だが、小学校に上がってからその考えは変わった。 私が施設暮らしをしていると知った大人たちや同級生たちからは、 『かわいそうだね』『恵まれていないんだね』と、私に言った。 私は、自分が何が可哀想で、何が恵まれていないのだか分からなかった。 お腹も満たされているし、施設にはたくさんの子供や先生がいて、自分は幸せなのに。 でも成長するに従って、それが『両親に捨てられて可哀想』という意味なのだと分かった。 だけど私には、その事が何故可哀想なのか分からなかった。 むしろ今までずっと、自分は幸せだと思っていたのに、 だが、周りから可哀想だと言われれば言われるほど、 自分の今の幸せが否定されている気がした。 『両親がいなければ幸せになれない』のであれば、 私は一生、幸せになれないのに。 そのうち、お腹いっぱいでいられることや、一人じゃないこと以上の幸せがあるのなら、それが欲しくなった。 可哀想だって私に言うみんなが持ってる幸せを、私は欲しくなった。 もう、ご飯があっても友達がいても幸せだとは思えなくなってしまった。 だけど、それはないものねだりだった。 どんなに欲しがったって、私の両親はどこにもいないのだから。 ──そして幸せになれないまま、大人になった私がいたのだった。 ふと、目を開ける。いつのまにか眠ってしまったようだった。 彼の方を見上げると、まだ起きそうもない彼はすーすーと眠っている。 私は彼に抱き締められた状態のまま、彼をじっと見た。 ──どうしてこんなに不思議な気持ちになるのかともう一度考えると、ふと思い当たることがあった。 長い間、施設暮らしをしていたが一人一人ベッドがあった。 だから、起きたらすぐ隣に人がいることは初めてだった。 水の中は落ち着く。 水の中にいると、このまま溶けてしまいたいと思う。 ──だけど結局、苦しくなって息を吸ってしまう。 彼の胸の中も落ち着く。 恐る恐る、手を彼の背中に回してみる。 彼は起きない。 私は満たされたまま──